縁あって、湯河原にある人間国宝美術館長から、ご自宅で催す茶事にお誘いいただいた。
月1度、焼き物(陶磁器)の勉強会に参加しているが、5月の「唐物」の講師を担当されたのが館長であった。「前列中央で目をキラキラさせて聞いていたのが印象的だった」(先生談)らしく、講義が終わり、生徒がおおかた帰った頃、「良かったら、私の茶事にいらっしゃいませんか」とお誘いいただいたのだった。思いがけないお誘いであるが、「伺います」と即答したのであった。秋以降になるとおっしゃっていたが、6月には日程調整のお手紙をいただき、何度かの文通の末、この日を迎えることができた。
大磯の高台に在るご自宅は、それはそれは広かった。どこまでも続く手入れの行き届いた庭の先には相模湾が見下ろせ、何とも気持ちが良い。お仕事柄人脈が広く、茶室「蒼庵」も茶庭も、名立たる職人が手掛けたものらしい。手入れをしてくれる爺や婆やがいれば、そこに住みたいような家である。
流派にこだわらない、いわゆる数寄者の茶事は初めてである。使われている道具は、桃山時代の物やら、誰それが所持していた物やら、どこぞの有名寺院にあった物やらと、どれもが美術館で見るような名品ばかりである。数々の名品であるが、知識不足の私にはもったいない代物である。そんな様子を気にすることなく、「楽しめれば良いんですよ」と、どこまでも包容力のある御仁である。様々な著書があり、いろいろな場所で講義をされている館長は、知識が豊富で人脈が広く、そして話上手ときているから、それはそれは楽しい4時間であった。これまで経験したシーンと静まり返った、緊張感一杯の茶事とは大違いで、賑やかさと静寂を併せ持った、素晴しい茶事であった。
堅苦しい茶事しか知らなかった私は、どうせ写真を撮る機会なんてないだろうと思いカメラを持っていかなかった。大変残念ではあるが、またお誘いいただけることを期待して、今回は良しとしましょう。
2010年9月21日火曜日
チクチク和裁
とうとう和裁を習い始めた。
以前、造形大の自主学習会「彩」で、織り上げた着尺を展示するための仮絵羽仕立をマスターした。誤魔化しながらも展示できるまでに自分で仕立てられるようになったが、本仕立てとなるとそうはいかない。さりとて、決まった日時に教室に通うことは難しい。こんな時、昔だったら、近所のお婆ちゃんのところに行けば、チョコチョコっと教えてもらえるのにな、近くに誰かいないかなと探していたのだった。
そんな折、お茶の稽古の場で、先輩茶人が「年取ったから袖丈を詰めたの」とおっしゃった。もしや、とお聞きすると、和裁が出来るとのこと。浅草在住の先輩茶人は、近所の婆さまに少しずつ教えていただき、今では何でも出来るらしい。であればとお願いしたら、快く「良いわよ。いらっしゃ」と応諾して下さった。そんな我々の話を聞きつけた同輩茶人も仲間入りして、一気に生徒3人で開始である。
初回の和裁教室は、娘時代から着ている長襦袢の修理である。生地はしっかりしているものの、縫い糸が弱り、あちこち開き状態になってしまっている。適当に繕ってはみたものの、縫い方が違うらしく、しっかりしない。古いながらも想い出のある長襦袢なので、何とか復活させたいと思っていた。教えていただけばアッと云う間である。グシ縫い、絎け縫い、耳絎け縫いを教えていただけば、チョチョイのチョイである。家に持ち帰り、教えていただいた通りにチクチクすれば、完全復活。嬉しい。
旦那が小学生時代に家庭科の授業で使った裁縫箱を覗けば、絎け台やら指貫やらあるではないか。可愛くて思わず購入したテントウ虫の針山やウサギのメジャーも日の目を見ることになった。楽しい習い事が始まった。
以前、造形大の自主学習会「彩」で、織り上げた着尺を展示するための仮絵羽仕立をマスターした。誤魔化しながらも展示できるまでに自分で仕立てられるようになったが、本仕立てとなるとそうはいかない。さりとて、決まった日時に教室に通うことは難しい。こんな時、昔だったら、近所のお婆ちゃんのところに行けば、チョコチョコっと教えてもらえるのにな、近くに誰かいないかなと探していたのだった。
そんな折、お茶の稽古の場で、先輩茶人が「年取ったから袖丈を詰めたの」とおっしゃった。もしや、とお聞きすると、和裁が出来るとのこと。浅草在住の先輩茶人は、近所の婆さまに少しずつ教えていただき、今では何でも出来るらしい。であればとお願いしたら、快く「良いわよ。いらっしゃ」と応諾して下さった。そんな我々の話を聞きつけた同輩茶人も仲間入りして、一気に生徒3人で開始である。
初回の和裁教室は、娘時代から着ている長襦袢の修理である。生地はしっかりしているものの、縫い糸が弱り、あちこち開き状態になってしまっている。適当に繕ってはみたものの、縫い方が違うらしく、しっかりしない。古いながらも想い出のある長襦袢なので、何とか復活させたいと思っていた。教えていただけばアッと云う間である。グシ縫い、絎け縫い、耳絎け縫いを教えていただけば、チョチョイのチョイである。家に持ち帰り、教えていただいた通りにチクチクすれば、完全復活。嬉しい。
旦那が小学生時代に家庭科の授業で使った裁縫箱を覗けば、絎け台やら指貫やらあるではないか。可愛くて思わず購入したテントウ虫の針山やウサギのメジャーも日の目を見ることになった。楽しい習い事が始まった。
2010年9月20日月曜日
福岡旅行
数年振りの本州脱出である。
旦那が学生時代にお世話になった大家さんが亡くなったという連絡があり、お焼香に伺うことになった。九州に出向くのは、たぶん15年振りくらいである。15年前の一人旅は、長崎、佐賀、大分を回っただけで福岡は通り過ぎてしまったように記憶している。お焼香が主目的ではあるが、この機会に旦那が過ごした街を散策するのも良かろうと、不謹慎ではあるが旅行気分一杯である。
我が家の旅行は、基本的に車移動である。そして観光名所にはほとんど立ち寄らず、その土地の空気を楽しむような過ごし方をする。今回、中1日はレンタカーを使ったものの、前後は電車・バス移動、そして観光名所らしき場所に数箇所行ったことが、画期的であった。大濠公園、友泉亭、楽水園、太宰府天満宮、志賀島と、短時間ではあったが、広範囲にわたり観光することができた。若かりし頃お世話になった大家さんの奥様、大学院研究室の恩師とも思いがけずお会いすることができた旦那は、とっても嬉しそうである。そんな姿を見て、私も何やら嬉しくなってしまう。
やっぱり旅は楽しいの~。無理をしてでも時間を作って出掛けたいものである。
旦那が学生時代にお世話になった大家さんが亡くなったという連絡があり、お焼香に伺うことになった。九州に出向くのは、たぶん15年振りくらいである。15年前の一人旅は、長崎、佐賀、大分を回っただけで福岡は通り過ぎてしまったように記憶している。お焼香が主目的ではあるが、この機会に旦那が過ごした街を散策するのも良かろうと、不謹慎ではあるが旅行気分一杯である。
我が家の旅行は、基本的に車移動である。そして観光名所にはほとんど立ち寄らず、その土地の空気を楽しむような過ごし方をする。今回、中1日はレンタカーを使ったものの、前後は電車・バス移動、そして観光名所らしき場所に数箇所行ったことが、画期的であった。大濠公園、友泉亭、楽水園、太宰府天満宮、志賀島と、短時間ではあったが、広範囲にわたり観光することができた。若かりし頃お世話になった大家さんの奥様、大学院研究室の恩師とも思いがけずお会いすることができた旦那は、とっても嬉しそうである。そんな姿を見て、私も何やら嬉しくなってしまう。
やっぱり旅は楽しいの~。無理をしてでも時間を作って出掛けたいものである。
2010年9月14日火曜日
鷲と鰯
久し振りに文楽を鑑賞した。今回の題目は、
・良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)
・鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)
良弁杉由来は、奈良・東大寺二月堂にある良弁杉の由来を題材にした作品。
初演は、明治20年。
近江国志賀の里の茶園に遊びに来た渚の方は、亡き夫との間の一粒種である光丸を大鷲にさらわれてしまう。その後、30年の間、狂人となり乞食となりながらも我が子を探し続ける渚の方は、花見客で賑わう淀川の大江の岸で、「南都東大寺の良弁大僧正は、幼いころ大鷲にさらわれたが、成人して大学者になられた」という話を耳にする。急いで奈良に向かった渚の方は、東大寺の僧の親切で二月堂の前にある杉の大木の元で良弁僧正との対面が叶った。渚の方が光丸に持たせていた如意輪観音像を、僧正が大切に持っていたことから、親子であることが判明し、二人は抱き合って涙にくれた。めでたし、めでたし・・・。
鰯売恋曳網は、今年没後40年を迎える作家・三島由紀夫が、昭和29年に新作歌舞伎として書いたものを、今回、文楽用に書き下ろしたもの。
鰯売の猿源氏は、京の五条東洞院の傾城・蛍火に一目惚れしてしまった。父親と博労の協力のもと、猿源氏は関東の大名に成りすまし、郭に乗り込み、蛍火と楽しい一時を過ごした。ほろ酔い気分の猿源氏は、蛍火の膝枕でウトウトし、寝言で鰯売であることがばれそうになってしまった。取り繕った猿源氏に対し、何と、蛍火は、「昔聞いた鰯売の声が忘れられない。あの鰯売と夫婦になりたい・・・」とノタマッタのである。驚き、喜んだ猿源氏は、「実は、自分は鰯売だ」と正直に告げ、二人はめでたく夫婦になれたとさ。めでたし、めでたし・・・。
悲しい話、切ない話が多い文楽であるが、今回はめでたい話2本立てである。鷲、馬、蝶、鰯と、ふざけた動物がたくさん登場したのもご愛嬌であった。
・良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)
・鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)
良弁杉由来は、奈良・東大寺二月堂にある良弁杉の由来を題材にした作品。
初演は、明治20年。
近江国志賀の里の茶園に遊びに来た渚の方は、亡き夫との間の一粒種である光丸を大鷲にさらわれてしまう。その後、30年の間、狂人となり乞食となりながらも我が子を探し続ける渚の方は、花見客で賑わう淀川の大江の岸で、「南都東大寺の良弁大僧正は、幼いころ大鷲にさらわれたが、成人して大学者になられた」という話を耳にする。急いで奈良に向かった渚の方は、東大寺の僧の親切で二月堂の前にある杉の大木の元で良弁僧正との対面が叶った。渚の方が光丸に持たせていた如意輪観音像を、僧正が大切に持っていたことから、親子であることが判明し、二人は抱き合って涙にくれた。めでたし、めでたし・・・。
鰯売恋曳網は、今年没後40年を迎える作家・三島由紀夫が、昭和29年に新作歌舞伎として書いたものを、今回、文楽用に書き下ろしたもの。
鰯売の猿源氏は、京の五条東洞院の傾城・蛍火に一目惚れしてしまった。父親と博労の協力のもと、猿源氏は関東の大名に成りすまし、郭に乗り込み、蛍火と楽しい一時を過ごした。ほろ酔い気分の猿源氏は、蛍火の膝枕でウトウトし、寝言で鰯売であることがばれそうになってしまった。取り繕った猿源氏に対し、何と、蛍火は、「昔聞いた鰯売の声が忘れられない。あの鰯売と夫婦になりたい・・・」とノタマッタのである。驚き、喜んだ猿源氏は、「実は、自分は鰯売だ」と正直に告げ、二人はめでたく夫婦になれたとさ。めでたし、めでたし・・・。
悲しい話、切ない話が多い文楽であるが、今回はめでたい話2本立てである。鷲、馬、蝶、鰯と、ふざけた動物がたくさん登場したのもご愛嬌であった。
2010年9月12日日曜日
スクーリング 「世界単位研究」
何やら聞き慣れない名前のスクーリングに参加した。場所は、7月にオープンした外苑キャンパス。さほど大きくはないが、神宮外苑の緑に囲まれた、シンプルではあるが小洒落た建物が、なかなか良い感じである。
世界単位研究は、地球世界を①生態系型、②ネットワーク型、③コスモロジー型の3つの類型に分けて考えてみようという内容である。ここ数年、海外旅行からトンとご無沙汰している私にとっては、世界地図を眺めながら、世界各地の話を聞けるだけで、なんともウキウキ気分に浸れた3日間であった。
そもそも地域研究という学問が始まったのは、ベトナム戦争がきっかけだったらしい。戦争に勝つためには相手国を知らなければならないということで、アメリカで研究が始まった。日本で地域研究が始まったのは、1960年頃、東南アジアに商品を売るためにはどうしたら良いかということで、国策として進められたそうな。純粋な興味として始まった研究ではなく、欲から生まれた学問と云ったところであろうか。
人間は、生まれ育った地域や文化により、基本的な考え方や行動が出来上がるものだと思う。戦争や侵略は、それぞれの土着の文化を無視し、侵略者の自分勝手な解釈により、その土地を無理のある姿に変容させてしまう。世界中の人々が、それぞれの土地の文化を尊重し合い、大切に育みながら共存できれば良いな・・・なんて思いましたとさ。
世界単位研究は、地球世界を①生態系型、②ネットワーク型、③コスモロジー型の3つの類型に分けて考えてみようという内容である。ここ数年、海外旅行からトンとご無沙汰している私にとっては、世界地図を眺めながら、世界各地の話を聞けるだけで、なんともウキウキ気分に浸れた3日間であった。
そもそも地域研究という学問が始まったのは、ベトナム戦争がきっかけだったらしい。戦争に勝つためには相手国を知らなければならないということで、アメリカで研究が始まった。日本で地域研究が始まったのは、1960年頃、東南アジアに商品を売るためにはどうしたら良いかということで、国策として進められたそうな。純粋な興味として始まった研究ではなく、欲から生まれた学問と云ったところであろうか。
人間は、生まれ育った地域や文化により、基本的な考え方や行動が出来上がるものだと思う。戦争や侵略は、それぞれの土着の文化を無視し、侵略者の自分勝手な解釈により、その土地を無理のある姿に変容させてしまう。世界中の人々が、それぞれの土地の文化を尊重し合い、大切に育みながら共存できれば良いな・・・なんて思いましたとさ。
2010年9月8日水曜日
だいたい・・・
右腕のギプスが外れた。
右手首骨折から1ヶ月。ようやくギプスを外す日がやってきた。なにぶん初骨折なので、どういう風に進行していくのか全く分からない。診察室に入ると、医者に「その診察台に横になって」と云われた。腕のギプスを外すのに横になるんだ・・・・?なんて思いながらゴロン。すると看護士が新聞紙を持って登場した。医者は右腕の下に新聞紙をひき、なにやら工具を持ち出した。見ると、何と!電動丸ノコではないか。ギョッとした表情を見て取った医者は、「大丈夫。腕は切れないから」とのたまった。が、しかし、どこまで切るかは医者の腕に掛かっているではないか。いくら信頼している医者とは云え、丸ノコで腕を切られるなんて、本当に大丈夫なんだろうか。不安の中、腹をくくり、まな板の鯉となり、目をつぶる。まぁ、器用なもので(もともとギプスしか切れない鋸なんだろうか?)、見事にギプスだけを切断完了。「ふぅ~」と息をつく私に、「恐いよね~。まぁ、信じてもらうしかないんだよね~」とニコニコ顔の爺さん医者。血を見ることなく終わって良かったよ。
猛暑の中、1ヶ月ギプスで覆われていた右腕は、垢マミレで黒ずんでいたが、想像以上に普通の状態になっていた。「あ~、これでガンガン使えるようになったんだ」と喜んだのも束の間、レントゲン写真を見る爺さんから、「だいだい付きましたね。こんなもんです。完全に元通りになるのには後1ヶ月はかかります。ぼちぼち使ってください。」だと。そんなものなんだ。全治4週間の『全治』は、『完治』とは違うものらしい。
それにしても、1ヶ月分の垢の何と多量なことか。
右手首骨折から1ヶ月。ようやくギプスを外す日がやってきた。なにぶん初骨折なので、どういう風に進行していくのか全く分からない。診察室に入ると、医者に「その診察台に横になって」と云われた。腕のギプスを外すのに横になるんだ・・・・?なんて思いながらゴロン。すると看護士が新聞紙を持って登場した。医者は右腕の下に新聞紙をひき、なにやら工具を持ち出した。見ると、何と!電動丸ノコではないか。ギョッとした表情を見て取った医者は、「大丈夫。腕は切れないから」とのたまった。が、しかし、どこまで切るかは医者の腕に掛かっているではないか。いくら信頼している医者とは云え、丸ノコで腕を切られるなんて、本当に大丈夫なんだろうか。不安の中、腹をくくり、まな板の鯉となり、目をつぶる。まぁ、器用なもので(もともとギプスしか切れない鋸なんだろうか?)、見事にギプスだけを切断完了。「ふぅ~」と息をつく私に、「恐いよね~。まぁ、信じてもらうしかないんだよね~」とニコニコ顔の爺さん医者。血を見ることなく終わって良かったよ。
猛暑の中、1ヶ月ギプスで覆われていた右腕は、垢マミレで黒ずんでいたが、想像以上に普通の状態になっていた。「あ~、これでガンガン使えるようになったんだ」と喜んだのも束の間、レントゲン写真を見る爺さんから、「だいだい付きましたね。こんなもんです。完全に元通りになるのには後1ヶ月はかかります。ぼちぼち使ってください。」だと。そんなものなんだ。全治4週間の『全治』は、『完治』とは違うものらしい。
それにしても、1ヶ月分の垢の何と多量なことか。
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