2010年10月30日土曜日

大磯茶会

大磯茶会は、大磯近辺にお住まいの数寄茶人が集まり、年に一度催される茶会である。

場所は大磯駅前の松月。1ヶ月前に伺った時の料理の美味しさが忘れられず、大磯在住でないにもかかわらず、ずうずうしくも仲間に入れていただいた。大磯は、昔は名士の別荘地だった土地柄ということもあり、今でも著名な方々が多くお住まいのようである。大磯茶会は、茶の流派にこだわらず、現代の数寄者により、再び大磯の地で茶の湯を盛り上げようと立ち上げられた集まりである。さすがに、お世話人には名の知れた面々が連なっており、歴史文化の豊かさを感じさせられる。

今年は、濃茶席を山田宗偏流家元、薄茶席を国会議員・河野太郎氏が受け持たれた。裏千家流を学んでいる私にとっては、宗偏流の作法は馴染みがなく、とまどうことも少なからずあったが、家元はじめ皆様が暖かく受け入れてくださったお陰で、緊張することもなく、楽しく過ごすことができた。使われた道具は、時代の付いた、侘び茶に相応しい取り合わせで、一服の茶をいただくだけなのに、何とも贅沢な時間と空間を頂戴した気分である。薄茶席は、小学2年生の女の子が点前をされた。小さい身体で一所懸命に点前をする姿は微笑ましく、拝見しているだけでご馳走をいただいた気分である。

台風14号が接近している中での茶会であったが、松月の中は別世界であった。綺麗な着物を着て、美味しい料理をいただき、様々な美術品を拝見できるのは、とても贅沢な気分であった。

2010年10月24日日曜日

四ツ頭茶会

鎌倉・建長寺で催された四ツ頭茶会に赴いた。
四ツ頭とは何ぞや?と思いつつ、茶会という響きに魅力を感じ、誘われるままに出向いた。

当日は4時半起床。暗い中で身支度を整え、8時半には北鎌倉駅に到着。先に到着していた茶友・みさピョン&ユミは、「一生分の着物を見た」と云うくらい、掃いて捨てるほどの着物姿を見送ったらしい。

説明書によると、『四ツ頭茶会は、中国の宋・元時代に禅院で行われた茶礼作法で、鎌倉時代に我が国に禅と共に伝えられ、禅院での法式・作法等を規定した清規(しんぎ)に従う厳粛な礼法であり、侘び茶の源流ともなっている』ものらしい。

どんな茶礼作法か簡単に述べると、
①部屋は、正方形の大広間である。
②客は9名ずつ4グループに分かれ、グループ毎の正客を主位・賓位・主対位・賓対位と呼び、各位を「頭(とう)」と称す。⇒これで「四ツ頭」
③4グループは、座鑑(座奉行)に従い順次入室し、四隅の角を中心にカギ状に広がり、部屋中央を向いて着座する。
④供給(くきょう・僧侶)から、客全員に菓子(縁高)と茶碗(天目台)が配られる。
⑤縁高には、干菓子2個と、椿の葉の上に極小の黒文字が真上から刺さった甘辛く煮たコンニャクが一切れ盛られている。
⑥茶碗の中には、適量の抹茶が入っている。
⑦右手に茶筅、左手に浄瓶を持った供給(僧侶)が自分の前にきたら、天目台ごと茶碗を自分の胸の高さに持ち上げる。
⑧供給(僧侶)は、立ったまま左手の浄瓶から湯を注ぎ、右手の茶筅で茶を点てる。
⑨客は、供給(僧侶)の点てる力に負けないよう、両手で必死に天目台を掲げ支える。
⑨客は、次客の茶が点て終わったら、縁高を持ち上げ、コンニャクだけを食べ、残りの干菓子と葉っぱは包んで持ち帰る。コンニャクを食べ終わったら、天目台ごと茶碗を持ち上げ茶を喫する。
⑩客全員が飲み終わったら、供給(僧侶)は、縁高と茶碗を下げる。
⑪座鑑(座奉行)に従い退室。

何とも変わった作法である。立ったまま茶を点てるってのは、どうなのよ。茶碗だけで良さそうなものなのに、天目台ごと持ち上げて茶を飲むって、どうなのよ。お行儀が良くないんじゃないの?と思うこともままあったが、まぁ、いろいろな作法があるものだと、面白く体験をさせていただいた。多くの流派では何かと畳に手を付きオジギをするが、四ツ頭はオジギがまったくない。オジギの代わりに合掌をする。禅寺の坊さんっぽい感じで、これは良し。

2010年10月17日日曜日

スクーリング 「考古学」

↑校舎前に展示された巨大な和紙のオブジェ。
この広場には、いつも何かしら生徒の作品が展示されていて楽しい。


昨年、歴女デビューした私は、どんどん過去に興味を持つようになり、とうとう考古学にまで手を染めてしまった。これまで、どんな遺跡を見ても「穴ぼこや崩れた石ころを見て、何が面白いのかしら?」と思っていた。変われば変わるものである。考古学と云われ思い浮かぶのは、炎天下、地面をチマチマと掘り返している姿である。地下深くで眠っている大昔の物を、時間をかけてワザワザ掘り起こさなくても良いのに・・・と思っていた。

考古学とは、過去のモノから、文化や歴史など過去の人々の営みを考える学問だそうである。なので、恐竜の化石の発掘は、考古学とは無関係らしい。地面を掘り返す姿から、同類かと思っていたが、全く違う分野なのである。過去の人々や生活について・・・なんて興味深いんでしょう。これまでは、遺跡を見ても、ただ遺跡そのものを見ているだけだったから面白くなかったのである。遺跡を見て、当時の人々や暮らしの様を想像する力がなかったら、面白くないに決まっている。そうだったんだ・・・。

遺跡調査の手順(国内の場合)は、
①文化財保護法に基づき、文化庁に申請
②調査計画の具体化
③分布調査(踏査、古地図分析、聞取りetc.)
④予備調査(測量図の作成、探査etc.)
⑤発掘
⑥遺跡、遺構の記録
⑦遺物整理
⑧報告書の作成、出版
と、気の遠くなる作業である。

発掘した遺物、遺構が、いつの時代のモノかを決定するためには、
①相対年代決定法
  ・層位学的研究法
  ・型式学的研究法
②絶対年代決定法
  ・紀年銘資料
  ・理化学的年代測定法
といった方法があり、複数を組み合わせ検証を行いながら決定する。

いまだに、安らかに眠っている棺を掘り起こすのはどうかと思っているが、この地でこんな人達がこんな生活をおくっていたんだと想像するのは、何とも楽しいものである。

2010年10月8日金曜日

茶室に風呂

4月から始まった『茶の湯と現代~焼き物の世界』の講座が、とうとう最終回を迎えてしまった。和物、唐物、高麗物、現代物と続き、最終回は今日庵文庫長・筒井先生の「日本の美意識と茶陶」で終了である。

話し好きの筒井先生は、まるで見てきたかのように桃山時代や江戸時代の話をされる。昔々の数寄者達を、まるで旧知の友人のようにリアルに話される。話題がアッチコッチに飛ぶため、頭を切り替え、ついていくのが大変であるが、その世界に入り込んでしまえば、こんなに楽しい茶談義はない。

昔の数寄者ナンチャラ銀行頭取は、倒産しかかった銀行を、自らの茶道具を売って負債に充て、見事経営を立て直したという話。昔の数寄者ナンチャラ少年は、15歳の時から茶道具を安く買っては高く売り、一生働くことなく、楽しく過ごしたという話。どの話も面白く、昔々は、お気楽に趣味に生きた粋人が、そこここに居たことを楽しく拝聴した。

また、本来は、茶室の近くには風呂があるもので、前席のおもてなし(給仕)で汗をかいた亭主は、後席の前に一風呂浴びて、着物を着替えて、さっぱりとしてから客の前に登場するものらしい。表向きはなんとも余裕を感じさせる行為ではあるが、さぞや裏方は大忙しであろうと、想像すると汗だくになってしまう。

2010年10月2日土曜日

大円の草

略して「円草」。久し振りの相伝稽古だった。

裏千家茶道には、テキスト本が世に出回っていない点前がいくつかある。師匠から弟子に、口伝、相伝されるものである。難しい点前ではあるが、テキストがないぶん、皆、必死に覚えようとするから、(上手・下手は別として)かえってスラスラと出来てしまったりもする(とおっしゃる業躰先生がおられる)。相伝稽古で何より辛いのは、長時間の正座である。アレヤコレヤとヤヤコシイ所作が多いため、どうしても一点前が長くなる。先輩・同輩の点前の見学、自分の点前稽古、正客としての稽古、末客としての稽古等々、立場を替えて稽古するとなると、1日掛かり、8時間の正座の刑に処せられることになる。稽古が終われば、自らの体重を受けていた両足はペチャンコである。

いろいろな手があって楽しい点前ではあるが、実際の茶事や茶会では、まず登場することの無い点前であることを思うと、私は、濃茶と薄茶の平点前が綺麗にできれば充分である。